【本文】



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』(上巻)
【第四部】「人間的〈関係性〉」の分析と〈共同〉の条件


 【第四部】では、これまでの議論を踏まえたうえで、本書の理論的枠組みをさらに次の段階へと展開してくことにしたい。【第四部】で焦点となるのは、人間存在の本質を、自己と他者が織りなす「〈関係性〉の構造」から読み解いていく「〈関係性〉の分析」という新たなアプローチである。

 われわれはまず、【第七章】「〈関係性〉の人間学」において、「〈関係性〉の分析」を行うための基本的な枠組みを整備することから始めよう。
 第二のアプローチである「〈生〉の分析」が、〈生活者〉としての人間、すなわち〈生活世界〉を舞台に、集団の一員として〈生〉を実現していく人間に焦点をあてたものだとするなら、「〈関係性〉の分析」は、より存在論的な人間、すなわち無数の〈関係性〉によって他者と結ばれ、その無数の「意味のある〈関係性〉」を通じて〈この私〉(=〈自己存在〉)として成立している人間の姿について焦点をあてたものである。

  出発点となるのは、そもそも自己とは何か、他者とは何かという問いかけである。われわれはここで、〈他者存在〉とは、自己にとって本質的に「意のままにならない存在」であること、そしてそれゆえ自己との間に「意味のある〈関係性〉」が成立しうるすべてのものであると理解する。
 そしてこのとき〈自己存在〉とは、決して〈他者存在〉から切り離されては存在することができず、常に特定の〈他者存在〉に対する「私」として現前すること、われわれが自己だと認識しているのは、こうした無数の他者との「意味のある〈関係性〉」を通じて現れた無数の「私」を、ただ漠然と捉えたものであるということについて見ていこう。
 われわれは、こうした自己と他者が取り結ぶ「意味のある〈関係性〉」の基本単位のことを「〈我‐汝〉の構造」と呼ぶことになる。そして〈自己存在〉の背後にあって、相互に影響しあう無数の「〈我‐汝〉の構造」のことを指して「〈関係性〉の場」と呼ぶことにしたい。

 続いてわれわれは、ここから具体的な人間相互の〈関係性〉に目を向け、そこにはさらに、〈間柄〉〈距離〉という二つの仕組みが存在するということについて見ていく。
 〈間柄〉とは、社会的に共有されている特定の“関係性の型”のことを指しており、それぞれの〈間柄〉には、それぞれに相応しい振る舞いの型であるところの〈間柄規定〉が含まれている。
 これに対して〈距離〉とは、この〈間柄〉を互いに解除してもかまわないと考える度合い、〈関係性〉において〈間柄〉に収まらない〈この私〉を、互いにどれだけ表出できるのかを示す概念である。

 ここで着目したいのは、こうした仕組みが、いずれも〈関係性〉に伴う負担を緩和させ、〈関係性〉を円滑にしていく働きを持つということである。そもそも人間が「〈我‐汝〉の構造」を通じて他者と向き合うということは、〈他者存在〉の本質が「意のままにならない存在」である以上、互いにとって負担となる。
 しかしわれわれは、ここで相手と所与の〈間柄〉として向き合うことによって、不用意に〈この私〉と〈この私〉が対峙することを回避することができるのである。
 ただし〈間柄〉として向き合うことは、ときに不本意な振る舞いを引き受けなければならないということをも意味している。また「意味のある〈関係性〉」が成立するためには、われわれは依然として、どこかで〈間柄〉に塗りつぶされない〈関係性〉というものを必要としている。
 したがってわれわれは〈他者存在〉と〈関係性〉を結ぶ際、〈間柄〉を活用しつつも、相手との〈距離〉に応じて、ときに敢えて〈間柄〉の仮面を外し、「〈我‐汝〉の構造」を通じた〈この私〉と〈この私〉としても向き合おうとするのである。
 ここでは、〈関係性〉において生じるこうした一連の負担のことを、三つの「内的緊張」という形で整理しよう。そしてわれわれが円滑な〈関係性〉を築いていくためには、こうした〈間柄〉や〈距離〉の上手な活用が不可欠となるものの、それによって〈関係性〉から負担そのものを完全に取り除くことは決してできないということについても考えたい。

 続いてわれわれは、【第三部】で考察した、〈自己完結社会〉における〈関係性〉のあり方についても、より詳しい分析を行っていく。例えば【第二中間考察】で見てきたように、現代社会においては、〈関係性〉が〈社会的装置〉の文脈に基づくかどうかによって、その形態は著しく異なったものになる。
 このことを「〈関係性〉の分析」から捉え直すと、以下のようになるだろう。まず、経済活動やインターネットのように、〈社会的装置〉の文脈に根ざした〈関係性〉の場合、われわれは互いの人格的要素を消してしまえるほどの強力な〈間柄〉を仲立ちにするか、〈社会的装置〉が備える“配置の機能”に依拠することによって、比較的容易に〈関係性〉を成立させることができる。
 しかし〈社会的装置〉の文脈から外れ、互いに〈ユーザー〉として対面しなければならない場合、そこでは〈間柄〉が欠落する、ないしはきわめて脆弱になることによって、われわれは互いに適度な〈距離〉を測ることができず、結果として〈関係性〉の成立が難しくなっているのである。われわれはこうした一連の極端な〈関係性〉のことを指して、「0か1かの〈関係性〉」と呼ぶことにしたい。

 加えてわれわれは、ここで「ゼロ属性の倫理」というものについても考察していくことになる。「ゼロ属性の倫理」とは、あらゆる〈関係性〉に、社会的な立場や属性に関わる概念を持ち込むことなく、ひとりひとりに「かけがえのないこの私」として接しなければならないとする倫理のことを指している。
 問題は、この倫理のもとでは、いかなる〈間柄〉も不当な抑圧として理解されてしまうがゆえに、われわれが時代に合わなくなった〈間柄規定〉を改変していくという道よりも、〈関係性〉に〈間柄〉を持ち込むこと自体を否定する道へと進んでしまうことである。
 そのためその倫理は、人々から苦しみを取り除こうとして、かえって「0か1かの〈関係性〉」を促進してしまうことになるのである。

 現代を生きるわれわれは、どこか無意識のうちに「意のままになる他者」を求めている側面がある。一方では自身の「ありのまま」を無条件に受け入れてほしいと願いながら、他方ではどこかで負担となる他者の「ありのまま」について、それを拒絶できることが当然であると考えている。
 それは言ってみれば、「意のままになる他者」を前提としたどこまでも都合の良い〈関係性〉である。しかしどれほど「意のままになる他者」を求めたところで、そこに「意味のある〈関係性〉」が成立することなどおそらくない。そうした〈関係性〉においては、「意味のある私」もまた存在しえないのである。

 【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」では、以上の「人間的〈関係性〉」をめぐる議論を踏まえ、そうした人間存在がともに〈関係性〉の負担を乗り越え、何かを一緒に実践していくということ、すなわち“共同性”や“共同体”とは区別されうる「共同行為」としての〈共同〉の概念について焦点をあわせる。
 そしてそうした〈共同〉を成立させる条件とは何か、という問題について考察していきたい。

 われわれはまず、こうした新たな〈共同〉概念を整備していくために、既存の共同理念を「牧歌主義的‐弁証法的共同論」という形で整理し、そこに含まれている問題点について確認しよう。
 「牧歌主義的‐弁証法的共同論」では、しばしば理想化された前近代の農村などが想起され――あたかも「社会的存在」としての本性が発露するかのように――無条件に共同が成立していたと見なされたり、近代において獲得された“自由な個性”を擁護しようとして、自発性を契機とした“個と共同”の図式的な止揚が語られたりしてきた。
 しかしここでは、人間存在の〈共同〉が決して無条件に成立するわけではないということ、また“自由選択”と“自発性”だけではいかなる〈共同〉も成立しえないということを、「100人の村の比喩」や「掃除当番の比喩」といったモデルを用いて考察してみたい。
 そしてそのうえで、これまでの共同論においては、理想化された共同体像や弁証法的なレトリックによって覆い隠され、〈共同〉の負担についての認識が決定的に不足してきたことについて指摘しよう。

 続いてわれわれは、元来〈共同〉が成立するためには、「〈共同〉のための事実の共有」、「〈共同〉のための意味の共有」、「〈共同〉のための技能の共有」という三つの条件が不可欠であったこと、さらには円滑な〈共同〉を実現するための仕組みとして、〈役割〉〈信頼〉〈許し〉の原理が存在してきたことについても見ていく。
 人間が生きるためには、「意のままにならない他者」と対峙することが避けられない。こうした「〈共同〉のための作法や知恵」は、いずれも人間が、こうした逃れられない〈共同〉と向き合い、その現実のなかで、より良く生きることを問うことによって生みだされてきたものなのである。

 そしてわれわれは、以上の〈共同〉をめぐる議論を踏まえたうえで、再び〈自己完結社会〉の諸相について目を向けてみることにしよう。
 ここで注目したいのは、現代社会においては、すでに〈共同〉のための三つの条件がいずれも破綻しているということ、そしてわれわれ現代人自身が、すでに〈共同〉を担えるだけの能力の大半を喪失しているという事実である。
 それにもかかわらず、なぜ現代社会は社会集団としての統合を保持することができているのだろうか。それは【第六章】でも見てきたように、〈ユーザー〉となったわれわれが、〈社会的装置〉の持つ強固な「自己調整機能」によって、非人格的な形での連帯をすでに達成しているからである。
 そこあるのは、言ってみれば人格的な〈共同〉なき連帯の姿に他ならない。しかし見方を変えれば、このことは人間存在が太古より逃れたいと願ってきた〈共同〉の必然性から、われわれがはじめて解放されたということをも意味しているのである。

 われわれはここから、【第二章】で言及した「不介入の倫理」をめぐる問題についても本格的な考察を行っていく。「不介入の倫理」とは、互いに対する介入を拒む代わりに、自身の人生にかかる責任はすべて自らが負うべきだとする倫理のことを指している。
 ここでは、「0か1かの〈関係性〉」がもたらす帰結として、とりわけ「底なしの配慮」と「存在を賭けた潰し合い」に疲弊しきった人々が、次第に他者との間に「意味のある〈関係性〉」を築いていくこと自体を断念していくことについて注目したい。
 実のところ「不介入の倫理」とは、こうした「0か1かの〈関係性〉」への挫折を反映する形で、人々が苦肉のうちに編みだしてきた“戦略”であるとも言えるのである。

 しかしわれわれは、すでに「不介入」という戦略そのものに対しても挫折しつつあるように見える。なぜなら、われわれがどれだけ〈共同〉からの逃走を願おうとも、“解放”は結局不完全なものでしかないこと、つまりわれわれの現実においては、われわれはいつの日か必ず、逃れられない〈共同〉の負担に直面するときがくるからである。
 そこにあるのは、〈共同〉の負担から解放された時代を生きるがゆえに、かえって迫り来る〈共同〉の重圧に耐えられないわれわれの姿、そして〈共同〉から逃れられると信じ込み、〈共同〉を避け続けてきたからこそ、突如として降りかかる〈共同〉に対して失敗を余儀なくされる、皮肉に満ちたわれわれの姿なのである。


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